1692年当時のイエメン・モカ港。かつてコーヒーの輸出港として繁栄した
前回は、モカ・コーヒーが私たちが知っているコーヒーの原点(ルーツ)で、いかに貴重なコーヒーかをご説明させていただきました。
実は、「モカ」という冠がつくコーヒーには、「モカ・マタリ」を代表とするイエメン産と、「モカ・ハラール」「イリガチェフェ・モカ」などを代表とするエチオピア産、二つの「モカ・コーヒー」があるのです。
この両国は、紅海をはさんだ対岸の国で、「モカ」はイエメン共和国の紅海に面した西海岸の港町の名前です。
1454年頃、イエメン国アデンのイスラム教の宗教学者・ザブハニーが、コーヒーの飲用を初めて一般の人に公開しました。そうしてコーヒーの飲用は、メッカを中心にイスラム教世界に瞬く間に広がったのです。
やがてオスマン・トルコ帝国中に広まり、その後、エジプトのカイロ、アレキサンドリアを介し、イタリアのヴェネッチアなどキリスト教世界(ヨーロッパ)にも広まり、瞬く間にヨーロッパの人々に受け入れられました。
モカの港の税関跡。ここから世界にコーヒーが輸出された(今は浸食され無くなってしまい、とても貴重な写真)
17世紀には、オランダをはじめとしてイギリス、フランスがイエメン産コーヒー豆の輸出をスタートさせ、モカ・コーヒー盛況時代を迎えました。
当時のヨーロッパでは、コーヒーのことを「モッカ」と呼んでいたくらい「イエメン・モカ・コーヒー」はヨーロッパ人の生活に急速に浸透していったのです。
需要が増えると、イエメンにおけるコーヒーの生産量では、とてもEUの列国を満足させるだけの収穫量はなく、それを補うために、すぐ海を隔てたエチオピアのコーヒーをイエメンに運び、モカの港からヨーロッパに輸出したのです。
当然、エチオピア産のコーヒー豆もモカ港から輸出されたので、「モカ」として取り引きされました。
そうです!
「モカ」という名は産地の名前ではなく、輸出港の名前なのです。
こうして、「モカ」の冠を付けたコーヒーはイエメン産と、エチオピア産の「二つのモカ・コーヒー」となったのです。
一説には、上級品(イエメン産?)を「トルコ豆」、下級品(エチオピア産?)を「インド豆」と呼んで取引していたとも言われています。
コーヒー栽培の伝播
17世紀の後半になると、オランダは植民地であるジャワ島にイエメン産モカ・コーヒーを植樹して、モノカルチャー(特定商品)として、コーヒーを世界的な商品としました。
その後、アムステルダムの植物園、パリの植物園に苗木が運ばれ、1723年、フランスがマルチニーク島にコーヒーを運び、その後、南米ギアナに植樹され、1727年には、ポルトガル領ブラジルに植樹されました。
やがてブラジルは世界一のコーヒー生産大国となったのです。
世界各国で、コーヒー栽培が行われるようになると、高価なモカコーヒー豆はだんだん需要が減っていきます。
19世紀終わりには、取引高が激減したモカの港は廃港同然となり、世界に向けたコーヒーの輝かしい輸出港としての歴史を閉じることになりました。
現在、イエメンではインド洋に面したアデンの港と、紅海に面したホデイダの港が、エチオピアではジブチの港がコーヒー輸出港となっています。モカの港からは一切コーヒーは輸出されていません。
しかし、いまでも愛称として両国のコーヒーには「モカ」の冠がついています。そして、日本では何十年もの間、不動の人気№1コーヒーなのです。
